<2014年 第39号>
西区が生まれたその時、町や学校はどんな様子だったのでしょうか。横浜西区郷土 史研究会長の田村泰治さんにお話を伺いました。
「1944(昭和19)年4月1日、西区は中区から9 番目の区として分離独立しました。
西区域を独立させたいという動きは昭和8年頃からあ りました。当時は区と警察署の二重行政システムで、人々 は不便さを感じていたのです。昭和18年12月1日、中 区から『南区』が独立したのを契機に分区運動が高まり、 翌昭和19年2月15日の予算市議会で西区が誕生しま した。
しかし、戦時体制下の生活は物資不足、働き手は 軍隊に徴用されて人手不足、役所も郵便局もすべて 町内会単位で行政の業務を分担していました。生活 必需品は配給制で、これも町内会で担当しました。 行政区を小さくするほうが便利でしたし、行動が敏 速 に で き る ようにするためでした。戦争は激しさを増し、横浜市も空 襲が激しくなりました。
昭和18年ころの運動会。窓ガラス には、空襲によるガラスの飛散を防ぐた めに×印の紙テープが貼られています。 (「にしまえ」西前小学校創立100周年 記念副読本より)
一方、急な分区で施設が間に合いません。当初は桜木 町一丁目にあっ た中区役所に間 借りして仮庁舎 で事務をとりま した。8月に桜木 町にあった日本モーター会社の建 物に庁舎を移しました。区内の人口 は111,490人、世帯数は 24,680戸、面積はどの区より 小さく5.038㎢(昭和19年1 月1日)でした。現在地に区役所が 移転したのは昭和27年(1952 年)11月18日です」
昭和19年、湯河原の集団疎開先の 旅館での記念写真 (「いなりだい」稲荷台小学校創立 80周年記念副読本より)